Humboldt-Universität zu Berlin - Kultur-, Sozial- und Bildungswissenschaftliche Fakultät - Institut für Asien- und Afrikawissenschaften

高野淳「津和野写真展」によせて

 

このたび、津和野町の皆様をお迎えし、高野淳氏の写真展を開催できますことは、私共森鴎外記念館にとって大きな光栄です。また、高野さんの作品によってベルリンの人々に津和野の町と風景を紹介できますことを真に喜ばしく思います。

は1943年生まれで、40年以上の写真家としてのキャリアをおもちです。主要なテーマは彼の故郷の風景です。その土地は16世紀以降、ヨーロッパの地図にも、「Iwami」として記載されています。「石見」という地名は森鴎外の遺言にも登場します。「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」というくだりです。(「遺言」『鴎外全集 第三十八巻』112.)

日本の近世前期、山陰道における文学、芸術、思想が国外に知られる4世紀も前から、石見産の銀がヨーロッパでの市場と貴族社会で珍重されていました。西洋から初め使節がこの土にもとらしたものも銀でした。

この「岩の国」の西部にある津和野は、近代の始まりである1868年までに、地方城下町としての外観を完成させていました。この町は深い谷間に位置し、比較的小規模な津和野藩領地の中心をなしています。古い時代の終わり、1860年代始めにここに森鴎外が森林太郎として誕生するわけですが、その時点でこの町にはすでに600年の歴史が刻まれていました。

今日、津和野の名前はキク科の植物「つわぶき」と結びつけられています。昔ここに住みついた遠い先祖たちがこれを「めでたい」とし、その名にちなんだ地名を付けました。この可憐な常緑多年草植物は「困難に耐える力」、「根気」、「簡素」という、この土地の多くの美徳を象徴しています。また、つわぶきはずっと後にこの土地に植えられるようになったとする説もあります。その場合、葦の一種である「ツバ」の野原「ツバノ」がその地名の起源であると言われています。

住人たちはこの町を「山陰の小京都」と呼び、古い帝都と並び称しています。

京都と同様、津和野もまた1868年には封建制度における役割を終え、過去に対して哀惜の目を向けることになります。また、20世紀においてこの町が、地域の発展史の研究に力を注いだという点では、全国の似た運命をたどった小都市の手本となっています。

最も早く来日した宣教師の一人で、16世紀後半にこの地域で活動したイエズス会神父ルイス・フロイスは、キリシタン大名の宇喜多左京亮パウロの勇気、毅然とした態度、信仰の深さを讃えています。またキリストへの忠誠を捨てるより死を選ぶと言い切った彼の言葉にも触れています。(『キリシタン研究 第二十輯』吉川弘文館 昭和五十五年 351-353.) 徳川時代が始まってから自分のクリスチァン・ネームを使わなくなった彼は、1601年から1616年まで坂崎直盛出羽守として津和野藩の藩主となりました。彼が取り入れた治水システムは今日にいたるまで賞賛を受けています。旧市街の水掘で錦鯉が養殖されている光景はこの町の名物となっています。和紙の原材料である楮苗の栽培を促進したことで、彼は製紙産業の発展にも寄与しました。

地域の学術的活動の拠点となったのは1786年に設立された教育機関「養老館」です。ここから森鴎外も輩出されました。19世紀後半、藩の文化的発展において中心的な存在であったのは藩主亀井茲監でした。この施設にゆかりのある著名な同時代人には、国学者で、国家神道を創設した一人でもある大國隆正、日本近代哲学の祖である西周、そして彼の甥であり、医者にして文豪でもあった森鴎外がいます。1868年の改革の後、明治政府は、近代社会を築き上げることに尽力しました。そのためにはまず、ヨーロッパの学術、技術、芸術などを学ぶ必要がありました。そこで養老館出身者たちは大きな役割を果たしたのです。森鴎外は「二本足の学者」を育成する必要性を説きました。それは東と西の両方に故郷を持つ理想の知識人のことです。彼の教えは我々が21世紀においても未だに一本足で立っていることを反省させるとともに、将来あるべき姿を示唆させるものです。

多くの日本人は津和野に故郷のイメージを持っています。高野淳さんは、ふるさととはどのようなものであるかを、伝統的な美学を反映した方法で表現しています。その作風のみならず、作品の内容をご覧になるだけで、コンテキストを考えずとも、ここで取り上げられているモチーフがきわめて日本的なものであることがおわかりになるでしょう。それが写真家の意図であり、津和野は彼にとって日本を凝縮した小宇宙なのです。

少なくとも一枚、内容が日本的だとは必ずしも言えない写真があります。例外的な作品ではありますが、私が実際にこの町の性格について感じた個人的な印象に特によく当てはまりますので、この作品についてお話させていただきたいと思います。

高野さんの写真は町のカトリック教会から乙女峠近くにあるマリア堂に赴く8人の女性たちの聖母マリア巡礼を撮ったものです。

皆様もご存じのように、日本におけるキリスト教は、1549年に来日したバスク地方出身のイエズス会神父フランシスコ・ザビエルが布教したのち、わずか 90年後に断絶されてしまいます。1614年、宣教師たちは国外に追放され、1639年には鎖国状態に入り、1853年には貿易も停止します。先見の明を持った人々は後に多くのアジア諸国を襲った運命から逃れる可能性を試したのです。この時代、日本は世界情勢からは離れていましたが、様々な方法でそれとコンタクトを保ち、歴史的な興隆期を迎えます。現在「日本的」と言われるものの多くがこの時期に培われたものだと言えましょう。反面、不遇な時代を迎えたのは「隠れキリシタン」と呼ばれた、地下に潜ったキリスト教信者たちです。彼らが地位を回復したのは1865年になってからのことです。長崎の26人の殉教者たちのために創設されたばかりの教会に訪ねて来た彼らが、カトリック神父たちにした最初の質問は「サンタマリアの御像はどこ?」でした。
(Francisque Marnas: La "Religion de Jesus" (Iaso ja-kyoo). Ressuscitee au Japon dans la seconde moitie du XIXe siecle, Paris, Lyon: Delhomme et Briquet Editeurs, 1897. Bd. 1, 489.)

明治天皇が即位し、天皇制が再スタートした年(1868年)とそれに続く2年間に渡り、3400人以上のクリスチャンたちが再教育施設に収容されました。キリスト教は依然っとして西洋の植民地政策に脅かされる日本にとっては脅威だったのです。津和野の再教育施設には153人の古くからの信者たちが長崎から連行されました。彼らの祖先たちは250年間のキリスト教禁止令にもかかわらず信仰を捨てずにいたのです。数年間のうちに、20軒以上あった施設の 3400人の収容者のうち、600人が亡くなりました。その内36人が津和野の町はずれの乙女峠で飢餓、寒さ、あるいは拷問のために絶命しました。

この出来事がいつしかヨーロッパでも関心を集めるようになりました。学識の高いエーメー・ビリヨン神父を中心としたパリの布教団体の宣教師たちは1890年から、また、ドイツのイエズス教会の諸団体が1920年からこの件に注目しました。

日本に帰化し、殉教者の一人の名を継いで「裕次郎」と名乗ったパウル・ネーベル神父の指揮のもと、1951年春、乙女峠の名で知られる、かつて収容所のあった場所に小さなマリア聖堂が建てられました。それ以来、毎年5月3日の憲法記念日に聖母マリア巡礼が行われています。

この日を選んだことは津和野市の歴史観において重要なことです。キリスト教の迫害は、当時の日本と、ヨーロッパをも含む世界中の多くの国々で、信仰の自由が一般に認可された社会・政治的な理想ではなかったという事実を物語っているのです。

憲法記念日には、1947年の日本の基本法に明記された基礎的な人権に注意を向ける意義があります。乙女峠での出来事と基本法の問題を結び付けるということは、日本における政教の分離にはもはや異論を唱えるべきではないということです。周知のように、今日のドイツその他の古いキリスト教国の多くにはなお政教分離の問題が残っています。

日本はこの点に関して、ヨーロッパの国々よりも問題は少ないかもしれません。西洋の国々は領主が領地の宗教を決めるという原則から出発していますが、日本では異なる宗教が共存することを古来から当然のように受け止められているからです。

津和野で育ち、いまや世界的に有名な画家であり絵本作家である安野光雅は故郷のカトリック教会を眺めてこう言いました。「津和野には不似合の、ゴシック的建築物なのに、今では殿町のたたずまいに不思議なほどよくとけあっている。」(安野光雅著『津和野』岩崎書店 1996年 59.) 津和野をご存じの方なら彼の見方に賛成するでしょう。

森鴎外は1950/51年に建設されたマリア聖堂を見ることはできませんでしたが、津和野の人々の歴史認識に対して、彼の作品などをとおして影響を及ぼしました。ここで、彼の娘である杏奴が1969年にマリア巡礼を観て書いた文章を読み上げたいと思います。

「聖母祭には、遠く広島、長崎、山口をはじめ、その他の各地から信者達が集まり、何よりも当の津和野町では、信者で有る無しにかかわらず、町民総出で乙女峠に於けるこの式典を祝った。千人を越える群集は長い行列を作って教会の門を出ると、花で飾られた聖母像を先頭にロザリオを唱え、或いは聖歌を歌いながら街の主要な道筋をねり歩き、やがて線路を越えて乙女峠の登山口にかかる。

峠の頂きには既に祭壇が設けられ,野外ミサの準備が整っていた。祭壇の位置は昔三尺牢のあった所で,立ちあがることも,坐ることも出来ず、身をかがめたなりで死んで行った信者の一人、安太郎という三十二歳の青年に、聖母が出現されたまさにその場所なのである。」(小堀杏奴著「父のふるさと」『朽葉色のショール』春秋社 昭和四十六年 188.)

感銘深い写真を撮ってくだった高野淳さんに感謝いたします。

 

この写真展を実現するためにご協力をいただいたベルリン・ミッテ区とフンボルト大学にもお礼を申しあげます

 

2005年9月6日
クラウス・クラハト
ベルリンフンボルト大学森鴎外記念館館長